うなぎの食文化 その2

蒲焼は江戸時代中期以降に確立されていいく。時代の背景なども併記していくと、わかりやすそうなので、主な出来事などとともにご参考いただければと思う。

1603年(慶長08年)徳川家康が江戸に幕府を開き、江戸の街づくりに着手していく。

1616年(元和02年)ヒゲタ醤油(銚子)創業、摂津の国の酒造家の勧めで、銚子で醤油の醸造を始めた。「大極上々溜まり醤油」として、大豆が主体の「味噌溜まり」のようなものであったと思われる。

1617年(元和03年)日本橋吉原が作られる。農業用水や物流のための水路の開削事業をすすめるなど江戸の街づくりはすすむ。大阪から大量の若い男性が工事のために江戸に住むようになる。

1635年(寛永12年)参勤交代制度が確立、五街道や宿場の整備がすすむ。

1645年(正保02年)ヤマサ醤油(銚子)創業、初代濱口儀兵衛が和歌山湯浅(たまり醤油)から銚子へ漁師としてうつり、その後商売を始める。

1646年(正保03年)佃村(大阪市西淀川区)と大和田村(大阪府)の計34人が江戸に移住した。江戸の土地は故郷の名前をとって佃島と名付けられ、現在の東京都中央区佃となっている。

1657年(明暦03年)明暦の大火
江戸城の天守閣も焼け落ちたという大火。焼失した旧吉原を浅草山谷にうつし新吉原とする、この大火をさかいに江戸の街整備は加速していく。江戸の街には各国から集まった単身男性が多く、外食のニーズもたかまるが当時は茶屋程度しかなかったようだ。河川交通網、海運航路の整備もすすむが食文化においては、まだ上方が豊かだったようだ。

1661年(寛文01年)野田(千葉県)で醤油醸造が始まってくる。

ここまでうなぎの話が出てこない、醤油の話ばかりで申し訳ないところだ。しかし、この醤油、蒲焼のタレには欠かせない調味料である。あの複雑なコクと照りや焼いた時の香りは、醤油、味醂などの調味料が不可欠だ。各国から人々が集まって江戸の街が作れらていく過程。そこにはこれから発展していく江戸に夢をかけ移住した単身男性の外食のニーズがあった。それが今日の外食産業の基礎にもなっているようなので、やはり外せない話だろう。なにもない湿地帯から今の巨大都市東京になった基礎がこの時代だったのだ。

さて、時代はかなり進み、1694年(元禄07年)雲風子林鴻「好色産毛」元禄07年(1692-1696)
元禄時代の風俗絵が書かれていて、京都河原町の夕涼みの様子のなかで露店のうなぎ売りがが描かれている。
店の行燈には「うなぎさきうり・同かばやき」と記されている。それまで丸のまま串に刺して焼いていたスタイルから京都では、うなぎを裂いて売っていたことがわかる。うなぎを裂いて二つに切り一本の串に刺してある絵だ。この絵から蒸していないことが想像できる。
柔らかく蒸しているうなぎだったら、一本の串では持つことができない。

陸、海、川の物流網の整備がすすみ、上方から酒や調味料など物資が入ってくる。上方からの品は「下りもの」と呼ばれ、醤油・酒などは上等とされ江戸で普及していく。

時は元禄、我が世の春。鰻屋の酒は旨いと評判になる、伊丹(兵庫)の剣菱が好まれて呑まれていたようだ。とはいっても、店構え的には床見世(屋台)のようなものだったようだ。

1697年(元禄10年)ヒゲタ醤油(銚子)原料に小麦を配合するなど製法を改良、現在のこいくち醤油の醸造法を確立。このころから地回り品(関東製造品)が流通するが二流品扱いされる。

1701年(元禄14年)松の廊下事件。翌年には吉良邸討ち入り(忠臣蔵)

1728年(享保13年)近藤清春「神社仏閣江戸名所百人一首」享保13年(1728年)に深川八幡前のうなぎ床見世の様子が描かれている。深川は鰻の名産地だった、当時は深川八幡の前あたりまで海だったそうだ。うなぎかき(手鉤のような道具で鰻をひっかけて採った)、という漁法でうなぎと採っていたようだ。
「好色産毛」の絵からは、の京都四条河原のうなぎ串と同じ一本串が描かれている。まだ自分たちが知っている蒸の入ったフワトロの蒲焼とは違うようだ。当時は養殖の鰻は存在していないので全てが天然鰻だ。店の様式も座敷縁側、床見世、辻売りのような販売形態だったようだ。

享保から宝暦あたりでは、うなぎのことを江戸前と呼んでいたとのこと。現在、寿司屋などで使われている江戸前という言葉は、うなぎが元祖なのだ。当時は浅草両国界隈の隅田川を大川と呼び、大川(隅田川)より西、城より東側で採れた鰻を江戸前と呼んだ。それ以外で採れたものを「江戸後ろ」と言われ区別された。江戸前神話がここにある。

1772年(安永01年)田沼意次、老中となる。
田沼政治は規制緩和政治の時代、消費を美徳とする。

深川では懐石料理屋登場するなど料理屋としての蒲焼屋も登場してくる。景気がよく、食い倒れ飲み倒れ、初鰹に大金を払って楽しむなどの贅沢が当たり前。江戸の初物好きもこのころに誕生したようだ。料理屋は見世(店)二階(座敷)で食べるのが当たり前じゃねーか、ってやんでぇ、べらんめぇ。酒と女と隅田川。そんな時代。

1778年(安永07年)川千家(東京柴又)創業、当初は帝釈天門前の茶店としてスタート。

1782年(天明02年)天明の大飢饉

1787年(天明07年)松平定信が老中となり、緊縮政治の寛政の改革が始まる。

1798年(寛政10年)駿河屋(千葉成田)創業、成田山新勝寺参道。

寛政年間(1789-1803)には、野田岩(東京麻布)、やっ古(東京浅草)うなぎ・割烹大江戸(東京日本橋)川甚(東京柴又)などが創業している。

1802年(寛政14年)十返舎一九が「東海道中膝栗毛」初編を著す。これをきっかけに、三重の伊勢参り、讃岐の金毘羅参りの旅行ブーム到来のきざし。

1805年(文化02年)明神下 神田川(東京神田)創業

1808年(文化05年)間宮林蔵が樺太を探検

文化・文政期の徳川家斎時代、重商主義により再び繁栄、高級料理屋の出現。

1814年(文化11年)流山(千葉)で白みりんの醸造に成功する。マンジョウ本みりん(現流山キッコーマン)味醂はもともと酒として扱われていた、やはり上方の味醂酒が珍しく上ものとされていた。それまで、上方式の醤油と清酒でタレを作っていたと考えられいる。味醂の登場で醤油と味醂の現在に近いタレが完成してきた、江戸っ子は甘く濃い味を好んだようだ。このタレの混合比率や隠し味の砂糖やカブトの煮だしたものや、鰹節など各店工夫したようだ。

1821年(文政04年)伊能忠敬の「大日本沿海與地全図」完成

1824年(文政07年)中川五郎左衛門「江戸買物獨案内 飲食の部」
神田泉橋通り春木屋が丑の日元祖と広告を掲載(丑の日の話)

このころ、野田の醤油(野田組)は19軒存在、江戸の人口も増加し需要が増加、銚子よりもアクセスが良いため野田の需要が増える。大麦から小麦に原料を変え関東風の濃い口醤油が江戸の人たちに受けた。濃いめのたれの蒲焼だったのだろうと想像する。同じく蕎麦のつゆもこの関東風の濃い口醤油でブレイク。幕府の亨保以降の地回り品育成のバックアップもあり、下りものより地回り物がよしとされる。いよいよ江戸パワーの本領発揮といったところ。

1827年(文政10年)ての字(東京新橋)創業

同じく文化・文政期には、駒形前川(東京浅草)創業している。江戸物が最高だ、宵越しの銭は持たねえという江戸っ子気質が成立してきたのもこのころと言われている。江戸の流儀ができ、江戸自慢の風潮。江戸後期の国自慢意識。京都(京の着倒れ、公家の町)大阪(食い倒れ、商人の町)江戸(呑み倒れ、武士の町)また、海外料理文化である卓袱料理が庶民レベルになってきたのもこのころのようだ。食文化が多様化してくる。

1832年(天保03年)葛飾北斎の「富嶽三十六景」ができる。

天保期には、廣川(埼玉熊谷)、いちのや(埼玉川越)が創業。また、1835年(天保06年)には、はし本(東京江戸川橋)が創業している。

1834年(天保05年)天保の大飢饉から水野忠邦が老中となり、天保の改革。倹約志向で料理や食生活を重視してはいけない風潮に。食道楽時代、グルメ文化最盛期に、この改革の失敗が幕府不審に拍車をかけ、明治維新への流れになったともいわれいている。

1837年(天保08年)大塩平八郎の乱

宮川政運「俗事百工起源」1885年(明治18年)によると、天保年間あたりに大久保今助と大野屋のうな丼の話はこのころだ。この話のうな丼は、まむし丼のようだからまだ蒸した蒲焼はなかったのか、あるいは、蒸さない蒲焼と、蒸した蒲焼と両方存在したのかは定かではない。

遠山英志「丑鰻考」文芸協会出版 1988年には、このころ、江戸ではうなぎ屋が増え競争激化、店の回転率を上げるため蒲焼を作りおき、冷めたものを温めなおすために蒸を取り入れた?そして、トロッとした鰻が好まれるようになり蒸す店が増えた?という仮説もあったりする。

1848年(嘉永01年)「江戸名物酒販手引」1848年(嘉永元年)当時のグルメガイドによると、
うなぎ屋90軒、寿司屋96軒、蕎麦屋120軒、料理屋246軒、茶漬け見世22軒などが掲載されている。

1852年(嘉永05年)江戸前大蒲焼番付によると尾張町の大和田を中心に大チェーン展開している模様。このころ、いろいろな番付が流行ったようだ、茶漬けや醤油メーカーなどの番付もある。

1853年(嘉永06年)米国使節ペリーが浦賀に来航
1854年(安政01年)日米和親条約が締結、日英、日露和親条約締結

1856年(安政03年)桜家(静岡三島)西周うなぎ店(千葉我孫子)が創業。

1858年(安政05年)安政の大獄

1860年(万延01年)桜田門外の変

1861年(文久01年)色川(東京浅草)創業

1864年(元治01年)池田屋事件

1866年(慶応02年)竹葉亭(東京新橋)創業

1867年(慶応03年)王政復古の大号令、パリで万国博覧会開催

1868年(明治01年)江戸城、無血開城。江戸を東京と改称

ものすごく、簡単に江戸の200年をさらってしまったが、江戸の街が豊かになっていく様子、調味料の開発と進化、料理屋の出現や外食産業の発展、そのなかで磨かれていく、うなぎ文化みたいなものを、お伝えできればよいと思う。

<参考文献>
・塚本勝巳「世界で一番詳しいウナギの話」飛鳥新社 2012年
・黒木真理「ウナギの博物誌」化学同人 2012年
・原田信男「江戸の料理と食生活」小学館 2004年
・杉浦日向子「大江戸美味草紙」新潮文庫 2001年
・遠山英志「丑鰻考」文芸協会出版 1988年
・興津 要「江戸食べもの誌」河出文庫 1981年
・松井魁「うなぎの本」丸ノ内出版 1977年
・宮川曼魚「深川のうなぎ」住吉書店 1953年
・全国淡水魚組合連合会「うなぎ」

2013.03記

コメント

  1. […] タレに欠かせない醤油。醤油の歴史については、うなぎの食文化 その2でちょっと触れている。 […]

  2. […] うなぎの食文化2でも醤油についてちょっと触れているのでご参考まで。https://unatan.net/?p=1428 […]

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