うなぎ食文化 その3

時代は明治維新へと進んでいく。
うなぎの養殖は1879年(明治12年)に登場する。
明治以降は、養殖うなぎの歴史となるようだ。

1868年(明治01年)江戸城、無血開城。江戸を東京と改称
明治のころになると鰻屋の看板は「御蒲焼」なったようだ。

1872年(明治05年)新橋横浜間に鉄道が開業、官営・富岡製糸場が開業
時代は和魂洋才、富国強兵、殖産興業。
日本的なものは古くさく西洋的なものが新しく進歩的だという思想になっていく。

1877年(明治10年)すず金(東京早稲田)創業

1879年(明治12年)服部倉次郎が深川千田新田でうなぎの養殖池を試みる。
メソを餌付け。後、服部倉次郎はすっぽんの人工孵化に成功する。

1883年(明治16年)魚庄(埼玉蓮田)創業

1885年(明治18年)宮川政運「俗事百工起源」に、うな丼大久保今助の話が書かれる

1887年(明治20年)うなぎパイの春華堂、浜松の露店菓子屋として創業

1888年(明治21年)うなぎの満寿家(埼玉浦和)うなぎ中村家(埼玉浦和)創業

1889年(明治22年)東海道線が全線開通する。

1891年(明治24年)原田仙石衛門が浜松新居町大元屋敷でうなぎの養殖を始める。

1892年(明治25年)うなぎ江戸屋(千葉流山)
1893年(明治26年)宮川本廛(東京築地)創業

1894年(明治27年)日清戦争

1896年(明治29年)奥村八三郎が愛知神野新田でうなぎの養殖を始める、
寺田彦太郎が三重桑名でうなぎの養殖を始める。

1900年(明治33年)服部倉次郎が浜松舞阪でうなぎの養殖を始める。

1901年(明治34年)足尾銅山闘争で田中正造が直訴

1904年(明治37年)日露戦争

1905年(明治38年)夏目漱石が「吾輩は猫である」を発表。

1910年(明治43年)石ばし(東京江戸川橋)創業

1914年(大正03年)第一次世界大戦
大正時代あたりから鰻屋の看板は「うなぎ」なっていったようだ。

1917年(大正06年)野田醤油株式会社並びに万上味醂株式会社設立

1918年(大正07年)愛知幡豆郡一色村にてうなぎ種苗養成が始まる。
当時の餌は蚕のサナギを使用していたようだ。
これがかなり臭かったらしく、うなぎに山椒も定着したとか。

1923年(大正12年)関東大震災

1924年(大正13年)千歳家(千葉野田)創業

1925年(大正14年)ラジオ放送開始

1929年(昭和04年)世界恐慌

昭和初期まで天然でなければ鰻じゃないという風潮があったようだ
養殖のうなぎはなかなか認められなかった。
安定供給とコストの問題もあった。

1932年(昭和07年)五・一五事件(犬養毅・暗殺)

1939年(昭和14年)第二次世界大戦

1941年(昭和16年)真珠湾を奇襲、うなぎの養殖生産中止、戦時統制下。

1945年(昭和20年)終戦

1947年(昭和22年)神田きくかわ(東京神田)創業
1948年(昭和23年)たつみや(東京神楽坂)創業

1950年(昭和25年)物資統制撤廃、うなぎ養殖生産量が増加
飼料がよくなり品質が改良、養殖うなぎの評価を得るようになる。

1951年(昭和26年)との村(東京)創業

1952年(昭和27年)登亭(東京)創業、千住の川魚問屋から100円うなぎをスタート

1953年(昭和28年)テレビ放送開始

1957年(昭和32年)日本南極観測隊が昭和基地を命名
このころ養殖うなぎの需要増加で静岡大井川、農地を養鰻池に転換あいつぎ

1958年(昭和33年)東京タワー完成

1961年(昭和36年)春華堂うなぎパイ発売

1964年(昭和39年)東海道新幹線開通、東京オリンピック

高度成長期の河川開発で天然うなぎ激減
うなぎの養殖は、路地養殖から加温式養殖へ転換

1968年(昭和43年)三億円事件が発生

1970年(昭和45年)日本万国博覧会

高度成長期時代の河川の開発などで
天然うなぎは激減。

食の産業化がすすみ外食産業の競争時代。
食はコンビニ化、画一化されていく。

1970年以降もいろいろ情報集ができてきましたら
続編も書けたらと思っておるところでございます。

<参考文献>
・全国淡水魚組合連合会「うなぎ」
・日本養鰻漁業協同組合連合会ウェブサイト

2013.12

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