江戸時代にも食べログがあったの?江戸っ子が熱狂したうなぎの名店ランキング

うなぎは大好物である。

江戸時代の日本は、平和が続いたことで経済と文化が発展し、食文化も大きく花開いた時代でした。とくに江戸(東京)は人口100万人を超える大都市となり、全国各地の食材が集まる「グルメの都」と呼ばれていました。地方から集まってきた単身男性が多く庶民の間にも外食文化が広まり、屋台営業から始まった茶屋、寿司屋、蕎麦屋などが一軒の店を構えるようになりました。

日本のうなぎ食文化

日本のうなぎ食文化

当時の人気のグルメは寿司(にぎり寿司)、蕎麦、天ぷら、うなぎの蒲焼、おでん(煮込み田楽)、団子・甘味でした。「早い・安い・うまい」を重視する江戸っ子の精神は、現代のファストフード文化にも通じているようです。

日本のうなぎ食文化

日本のうなぎ食文化

1697年(元禄10年)ヒゲタ醤油(銚子)原料に小麦を配合するなど製法を改良、現在のこいくち醤油の醸造法を確立。このころから地回り品(関東製造品)が流通することになり味醂調味料などと調合することで日本のタレ文化が始まりました。この調味料革命も江戸のグルメを後押ししたようです。このころの醤油の番付表も存在していました。※ヒゲタ醤油(銚子)資料館所蔵

日本の鰻の食文化、蒲焼の歴史

日本の鰻の食文化、蒲焼の歴史

そして、現代の食べログの原型ともいえる、鰻屋番付が登場したのは、文化・文政期(1800年代前半)といわれています。これは、「うなぎ割烹大江戸」さんの店内に掲示してある、文政年間の「江戸中うなぎ屋番付」です。これは江戸の人気うなぎ屋を「東西の横綱・大関・関脇…」と格付けしたもので、庶民の食文化と娯楽を兼ねた人気コンテンツだったようです。※うなぎ割烹大江戸所蔵

日本の鰻の食文化、蒲焼の歴史

日本の鰻の食文化、蒲焼の歴史

番付表のしるしの付いたところに、「うなぎ割烹大江戸」さんの前身である「奴うなぎ吉兵衛」と「草花屋治兵衛」がそれぞれ西の関脇前頭にランクインしています。

日本の鰻の食文化、蒲焼の歴史

日本の鰻の食文化、蒲焼の歴史

そして時は進み1852年(嘉永5年)の江戸前大蒲焼番附です。文化・文政期にランクインしていたお店と比べるとかなり入れ替わりがありますね。霊岸島(茅場町付近)の大黒屋、麹町の丹波屋さんが大関にランクインしています。麹町の丹波屋さんの板長だった苅込氏が新横浜「大黒屋」の開店に関わっています。東の前頭「浅草前川」と西の前頭、明神下(外神田)「神田川」は今も現存しています。
※東京都立中央図書館特別文庫室

日本の鰻の食文化、蒲焼の歴史

日本の鰻の食文化、蒲焼の歴史

面白いのは、文化・文政期と1852年(嘉永5年)の番付表の行司を務めているのが尾張町の大和田なんですよ。この大和田という鰻屋さんについてもっと知りたくなってしまいます。こちらで現存する「大和田」さんについて探訪しています。新橋の大和田さんは、尾張町(銀座)の大和田からの暖簾分けなのだそうです。

 

日本の鰻の食文化、蒲焼の歴史

日本の鰻の食文化、蒲焼の歴史

江戸時代のグルメ誌的存在の1824年(文政7年)の「江戸買物案内ノ内うなぎやの部」では26軒の鰻屋さんが紹介されています。
※『江戸買物案内ノ内 うなぎやの部』(味の素食の文化センター所蔵)

 

日本の鰻の食文化、蒲焼の歴史

日本の鰻の食文化、蒲焼の歴史

また、1848年(嘉永1年)の江戸名物酒飯手引草には90軒の鰻屋さんが紹介されています。
※〈備〉所蔵者作成画像,NDL書誌ID:000007277974,NDLPID:2533095。

日本の鰻の食文化、蒲焼の歴史

日本の鰻の食文化、蒲焼の歴史

江戸時代の江戸の男女比率は男:女=2:1。男性の生涯独身率は50%。地方から江戸に奉公に出てきた男性であふれかえる江戸。自分も独身だったら毎晩飲み歩いていたことでしょうから外食産業は大いに賑わっのでしょう。より美味しいものを追及するのは、今も昔も変わらなようです。またこのような資料を発見したら追記していこうと思います。
※景山致恭[ほか編] 江戸 : 尾張屋清七 嘉永2-文久2[1849-1862] 28舗 ; 50×54cm(折りたたみ17×9.0cm)ほか 【本別9-30】

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