うなぎは大好物である。
鰻は、もともとそのまま食されていて、辛口のタレの蒲焼を酒のツマミとして楽しまれていたようです。1700年代から1800年代にかけて「うなぎ(附めし)」という看板を掲げた店が登場し「うなぎ飯」が普及してきたようです。ご飯には甘めのタレが合うという事で、その頃からタレに味醂が使われるようになったようです。
鰻の蒲焼をご飯の上に載せた「うな丼」は、現在では日本全国で親しまれる定番料理です。しかしその「発祥」については諸説あり、江戸時代〜明治期の文献や浮世絵、地方伝承などを根拠にする諸説が混在します。3つの諸説について調べられる範囲で調べてみました。
■説01:大久保今助説(一番知られているであろう説)
1804年~1818年(文化年間)に、江戸日本橋の芝居の金主をしていた大久保今助が「蒲焼きを温かいご飯と一緒にする」ことを考案し、これが鰻飯(うな丼)の始まりという説があります。これは1885年(明治18年)の著書『俗事百工起源』(宮川政運)に同説が記載されていいます。本文では今助が蒲焼きの冷めるのを嫌って飯の上にのせるようにさせた、と記述されます。
※『俗事百工起源』は幕末〜明治にまとめられた習俗・職工事例をまとめたものです。

うな丼(鰻丼)の起源と諸説を史料で検証

うな丼(鰻丼)の起源と諸説を史料で検証
※『俗事百工起源』(宮川政運1885年著)蒲焼の語源についての記載もあります。
■説02:牛久沼(龍ケ崎市)発祥説(舟待ちの逸話)
大久保今助の別伝承で、牛久沼の渡し場の茶屋で船が出る合図があり慌てて蒲焼を飯にのせて蓋をして持ち帰ったのが好評で広がった、というエピソード。これをもとに龍ケ崎(牛久沼周辺)を発祥地とする地域史的主張が存在します。
※これについて、龍ヶ崎市役所に電話にて取材確認したところ、特に根拠を示す文献などは無いのだそうそうで、古地図などを基に、伝説的に伝わってきたことで地域PR的な意味合いが強いようです。牛久沼付近も鰻屋さんが集まる場所ですので興味のある方は行ってみるとよいですね。
#牛久沼周辺の鰻屋さん。
・うなぎ屋さん探訪043~ 茨城県龍ケ崎市うなぎ「鶴舞家」さん
・うなぎ屋さん探訪518~「うな丼」伝説のある牛久沼で鰻を食う「うなぎ川魚料理伊勢屋」さん【休業中】
■説03:日本橋葺屋町の裏長屋での販売記述
『真佐真のかつら』(青葱堂冬圃:1857年安政4年著)等の古い随筆に、著者の幼少時に葺屋町の裏長屋で鰻丼が売られていた、といった記述があり、大久保説以前から類似の食形態が存在したことを示唆しています。

うな丼(鰻丼)の起源と諸説を史料で検証
※『まさきのかつら』(国文学研究資料館所蔵)からのイメージ
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200008051

うな丼(鰻丼)の起源と諸説を史料で検証
結論としては、「誰が、どこで最初に作ったか」を示す確実なの史料は見つかりませんでした。単一の発明者を断定することは難しいようです。しかし史料『俗事百工起源』や江戸期随筆に記載されていることから想像すると、江戸後期(文化〜天保期)頃に鰻を飯に合わせる食文化が形成され、屋台・出前・店売りの工夫により丼様式が定着していったのではないか?という食べ方が変化していったのではないかと想像するところです。
これは、江戸での話なので、むしろ「うな丼」で食べるスタイルは中部から関西圏の方が現代でも多く見受けられるので、もしかすると、発祥は「ひつまぶし」や「まむし」になるのかもしれません。やはり謎多き鰻食文化です。
「鰻(附めし)」=「うなぎ飯」=「うな丼」食べ物としては同じものですが、器などのビジュアル的な違いがあります。
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