関東風と関西風の大きな違いは、背開きか腹開きかと、鰻を蒸すか蒸さないかだろう。関東風の調理工程は、背開き、白焼き、蒸す、竹串で串打ち、頭を落としてから焼く。関西風の調理工程は、腹開き、蒸さない、金串で串打ち、頭をつけたまま焼き最後に落とす。というところだろう。
(画像は「いづもや 別館」)
以前にも書いたが、「鈴鹿家記」1399年(応永6年)に文献に初めて「蒲焼」という言葉が登場する。室町時代、食文化の中心は京都。当時の調理方法はうなぎを長いままを丸々1匹串に刺し、塩をつけて焼いて食べるというスタイルだ。うなぎを裂くようになったのは1700年頃の江戸時代に入ってからだ。雲風子林鴻作著『産毛』に京都四条河原での夕涼みを描いた絵に「鰻さきうり・同かばやき」と書かれていることから推測されている。このころの江戸では茶屋くらいしかなく、まともな食事ができる店がなかったのだが、1770年代頃までには飲食店も増え外食文化が確立されていく。1800年代の文化文政期のころに関東風蒲焼が確立されてきたようだ。
(画像は「うなぎ屋酒坊・画荘 越後屋」)
鰻の裂き方の違いについては諸説あるが、江戸では侍が多く「切腹」を連想させるので背開きとして、関西は商人文化の町なので「腹を割って話す」ということから腹開きになったという説もあるが、1700年代頃の江戸では江戸開発のために関西から多くの作業人員が移住してきて、外食のニーズが急激に高まり、料理人の腕が追いつかなかったのではないかという説もある。鰻は肋骨がなく腹開きは料理人の包丁の技術が要求されるが、背開きは、背びれがとりやすい、鰻がおとなしくなり裂きやすいなど腹開きより裂きやすいといわれている。江戸の街には各国から集まった単身男性が多く、外食のニーズは高かったが飲食店も熟練した調理人も不足していたため、効率を上げるため江戸では背開きにしたのではという説もある。
(画像は「活鰻の店 つぐみ庵」)
養殖ウナギが誕生するまでは天然鰻を調理していた。天然鰻をいかに柔らかく美味しくそして早く提供するか工夫された。気の短い江戸っこに素早く提供できるように鰻屋がいろいろ工夫をしたのだろう。白焼きをして箱に入れて蒸らしておく、ここまで準備をしておきお客が来たら余熱で柔らかくなった鰻をタレ焼きをして出す。こうすることで鰻も柔らかくなり調理の時間も短縮出来るようにしたのではないだろうか。現在では蒸し器や圧力鍋で蒸すが関東風として受け継がれているようだ。また関西では、焼の技術で鰻を柔らかくする。そしてうな丼のことを「まむし」という。これは蒸さずに焼いた地焼の鰻をご飯の上にのせ、さらに鰻の上にご飯をかぶせることで地焼の堅めの鰻も程よく蒸されたうな丼になる。語源はご飯で蒸すから「まんまむし」とか、鰻の上にご飯をまぶすからまぶし、そして「まむし」になったとも言われている。
(画像は「ひょうたんや1丁目店」)
関東風の蒸し焼きと、関西風の地焼を地域で分けるとすると、どうやら浜松あたりから諏訪湖までの天竜川沿いのようだ。浜松あたりでは関西風のお店と関東風のお店が混在し、諏訪湖周辺の諏訪市では関東風と関西風が混在するがお隣の岡谷市では関西風となるようだ。養殖鰻が主流の現在は関西風といっても柔らかくトロッと焼く店もあるし関東風でもふんわりした感じからトロッとした感じなど様々だ。お店によって鰻の質、蒸の時間、焼き方、タレの甘辛などいろいろ工夫しているので蒲焼の味も様々なのだ。関東風と関西風ではどちらが旨いかということではなく、食べる人それぞれの好みであり楽しみ方が違う。
2014.7
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