土用丑の日の発祥についての諸説

土用丑の日の発祥については明確な文献や資料が残されていない。
いろいろな説があるので、いくつか紹介してみる。

そもそも江戸時代には養殖の鰻は無く天然の鰻を獲って食べていたと想像する。
天然鰻の旬は秋から冬に身にしっかり脂を蓄えたころが美味い。
なので夏場にはあまり鰻は食べられなかったのであろう。
夏場の鰻屋はヒマだったのではないか?が前提にありそうだ。

これは一番メジャーな説。
平賀源内が商売がうまく行かない鰻屋に、
「本日丑の日」と書いて店先に貼ることをすすめた。
その結果、鰻屋は大変繁盛、それを見た他の鰻屋も、それを真似るようになり、
土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着したという話。

同じようなエピソードだが人が違う。
鰻屋に相談をもちかけられた蜀山人(大田南畝)が、
「丑の日に鰻を食べると薬になる」
という内容の狂歌をキャッチコピーとして考え出したという話。

こちらは江戸時代の文献に載っていたりする。
「江戸買物獨案内」1824年(文政7年)飲食の部蒲焼の項、
神田泉橋通り春木屋善兵衛の欄に”丑の日元祖”とある。
すでに丑の日は定着していて、うちが元祖なんだよと
有料の広告媒体としての出版物に載せたということなのか。
「江戸買物獨案内」巻頭には、蜀山人(大田南畝)が序文を書き、
口絵は当時の人気絵師、葛飾北斎が描いている。

この春木屋にはこんな話もあったりする。
同じ文政年間(1816-1829年)の土用に、
大名藤堂家から大量の蒲焼の注文を受けた神田泉橋通り春木屋善兵衛。
子の日、丑の日、寅の日と3日間にわたり蒲焼を作り土甕に入れて保存しておいたところ、
丑の日に作った物だけが悪くなっていなかったからという話がある。

他には、地域によって丑の日に「う」の文字がつく物を
食べると病気にならないという風習があるなどと言われている説もある。

わりと人名として通っているのが、平賀源内。
話的にもいい話なのは、やはり平賀源内の説なのか?
明確に分からないところが歴史ロマンなのだろう。

土用の丑にまつわる動きとしては、
古くは諏訪湖でうなぎが採れたという長野県岡谷市。
うなぎのまち岡谷の会が「寒の土用の丑の日」を日本記念日協会に記念日
として登録するなどしている。

2013.03

コメント

  1. […] この大名藤堂氏は土用丑の日の諸説の一つ春木屋説に登場してくるのも鰻と深いかかわりがあるのだろう。「土用丑の日の発祥についての諸説」ご参照 […]

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