散歩録08 深川江戸資料館を訪ねる散歩

散歩が好きだ。

清州白川駅から徒歩5分ほど
清澄庭園の反対側に「深川江戸資料館」がある。

鰻に関する古い文献などを読んでいると
なにかと登場する深川界隈。
ちょっと興味がある。

清州通りを左に曲がると
ちょっと江戸の風情を感じさせてくれる。

江戸土産屋。
ちょんまげかつらをつけた店主がいる面白そうな店だ。

まもなく「深川江戸資料館」
入館料大人400円を払って中に入る。

展示会場の階段を下ると、古い町並みにタイムスリップ。
江戸時代末期、天保年間(1830年から1844年)の
江戸の町並みを再現しているとのこと。
天保年間というと将軍は第12代徳川家慶、
大塩平八郎の乱、天保の大飢饉などがあったあたり。
右に見えるのは八百屋「八百新」。

船宿の前には、船から荷揚げをしている風景。
当時は門前仲町のあたりまで海であった
1590年に徳川家康が江戸入りして
河川の整備と運河の掘削を行い、水運が発展した。

1596年深川八郎右衛門が深川の地を開いたそうだ。

当時の天麩羅屋。
床見世と呼ばれる、屋台型のの店。
海が近く、海産物が豊富に採れたのだそうだ。
それを当時貴重な油で天ぷらにして食べさせたとのこと。

こちらは蕎麦屋。
二八蕎麦とある。
こちらは担いで移動できる店舗というか屋台。
かけそばを売っていたようだが
現在のアツアツの蕎麦にアツアツのだし汁をかけるものではなく
蕎麦を水でしめて、どんぶりに入れ、常温の甘辛濃いめの蕎麦つゆをかけて
客に出していたとのこと。
お客は、広場で立ち食いしていたようだ。

長屋、四畳半一間という感じだが、機能的に作られていると感じる。

館の学芸員の方に当時の鰻屋について話を聞いてみた。

当時の鰻屋のスタイルは
天麩羅屋のような移動型の床見世のような店舗だったとのこと。
現在の裂いて串にさした蒲焼ではなく
身をぶつ切りにして、一本串に刺したものだったようだ。
この、ぶつ切り一本串スタイルがガマの穂に似ているところから
蒲焼となったという説もある。

水運が盛んになり、遠方からの物資も豊富に供給されるようになる
紀州の醤油、南方の砂糖、名古屋の酢の三品が揃うのは江戸だけだったとのこと。
これを江戸自慢として、蕎麦つゆ、天つゆには、ふんだんに砂糖と醤油が使われたそうだ。
江戸のそばつゆなどは、辛口濃厚であったようだ。
鰻のタレも同様で甘辛濃いめであったそうだ。

また、当時の油は貴重品
揚げ物と言えば、天麩羅と油揚げぐらいだったらしい。
この油揚げをつかってお稲荷さんにして、
しょうが醤油で食べるのが贅沢だったのだそうだ。

そして深川付近では天然江戸前鰻が豊富に採れたそうだ。
江戸前とは大川(隅田川)西、御城(江戸城)より東で採れた鰻を江戸前と呼んでいた。
この江戸前というのは寿司ではなく実は鰻が発祥のようである。
深川の江戸前天然鰻とは上ものとされ
江戸前以外を江戸後ろ、江戸向などと言って区別されたようだ。

なかなか面白い資料館であった。
現在でも江戸創業の老舗鰻屋は現存する。
歴史も深入りするときりがないのだが
適当に面白そうなところだけ、つまんでいくと面白い。

地下鉄で押上。
スカイツリーの真下だ、すごいな江戸は。

ちょっと歩くことにする。
浅草通りを吾妻橋に行く。

そうそう、あの「本日丑の日」の元祖といわれている平賀源内さんは
1776年に深川清澄町でエレキテルを発見しているのである。
この「丑の日」にも諸説あるのである。
奥が深い。

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