日本人の食文化にうなぎが登場するのは、遺跡から発見された魚の骨の中に、ウナギのものも含まれていることから新石器時代頃と言われている。
「万葉集」759年(天平宝字3年)の中には、大伴家持が夏バテの石麻呂に詠んだ和歌が2首収められている。
「石麻呂に吾(われ)物申す夏痩せに良しといふ物ぞ鰻(むなぎ)漁(と)り食(め)せ」
訳:石麻呂さんにいいこと教えてあげますよ、夏痩せには、うなぎが良く効く薬だそうだから、鰻を捕まえて食べたらどうですか
これに対する返信の歌が
「痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻(むなぎ)を漁(と)ると川に流るな」
訳:そうは言ったけど、痩せても生きてればいいんだから。うなぎを獲りに行って、川に流されるほうが危ないから
この時代から、うなぎは元気が出る栄養価の高い薬のような存在だったようだ。
京都が食文化の中心の時代が続き戦国時代となる。
ここで蒲焼の語源についても諸説あるのでご紹介。
蒲の穂に由来するという説。
池や沼などの水辺に生えている蒲の穂。秋田名物きりたんぽのような形をしているやつだ。蒲の穂の語源は「かま ぼこ」なのだが、現在のかまぼこは板かまぼこが主流なので、
ちょっと姿かたちは似ていない、原型的にはちくわが 近いのだろう。
うなぎの調理の仕方も江戸時代初期あたりまでは、裂かずに丸ごと口から串を刺し、焼いて食べた と言われている。『大草家料理書』では、丸のまま縦に串刺しにして醤油と酒で調味し焼いて調理されていたことが記されていたり『大言海』では形が蒲の穂に似ていたことから付いた「蒲鉾焼」の略形だと記されていたりしている。
さらに、樺の木に由来するという説では、焼いた時の色や形状が樺(カバノキ)の皮に似ているからとするものだったり、焼いている香りが早く伝わることからついた「香疾焼」(かばやき)に由来するという説や、中山道の宿場町、浦和で町人が旅人に出したからとする説のどなど諸説があったりするのだ。
関ヶ原以前の「鈴鹿家記」1399年(応永6年)に文献に初めて「蒲焼」という言葉が登場する。「昔は鰻を長きまま丸で串にさして塩を付け焼きたるなり、その形川辺などの生たる蒲の花の形によく似たる故にかばやきと云いしなり。」うなぎ長いままを丸々1匹串に刺し、塩をつけて焼い食べるというスタイルだ。
街道の茶屋が鰻料理を出すようになり、醤油の登場などを経て、うなぎ蒲焼が花開くのは江戸中期以降になる、その2へ続く。
2013.03記